2013年10月16日水曜日

はじめての寺山修司(1014asahi)

詩美と化す本物以上のニセモノ
「私の墓は、私のことばであれば、充分」。
そう書き遺し、寺山修司がこの世を去って30年。だが、その墓は今もつぶやき、時に怪し
く光るという。魔術か、幻影か。
● 「職業は寺山修司」と 自ら語るように、その活動は四方八方に及び、厚底サンダルの足跡をたどると、中世の錬金術師が描く宇宙の見取り図のようなものができた。
 これでも全部ではない。1973年には、荒木経惟に弟子入りん、本格的に写真を撮り始めた。「眞を寫す」のではなく「贋を作る」ため、「起こらなかった事も歴史の内である」という持論の証拠物件とするために。
 本業であることばの世界でも、本物以上のまがい物づくりに精を出した。すてきな虚構で、現実をおびやかすのが好きだった。
 ラジオドラマ「大人狩り」は「不道徳」となじられ、エッセーでは家出や母捨てを勧めてひんしゅくを買い、包帯男が一般家庭を訪れる市街劇「ノック」は、110番通報される騒ぎとなった。
 後に失恋自殺する歌人・岸上大作に、寺山は言い放っている。
「煽動でない詩など存在するものだろうか」
● 「贋物」作りに精魂を込めた寺山を険しい目で見る人もいる。そもそも54年、18歳の若さで世に出るきっかけとなった「短歌研究」新人賞の時から「模倣小僧」と、そしる
声はあった。自身の俳句を短歌に詠み直し、中村草田男や西東三鬼の旬を参照し、作り替えていたからだ。「引用」の多さ、自伝の欺きは、今や研究者の常識だ。
 明治大学准教授の久松健一によると、短歌の代表作は田中冬二の詩の2行が「下敷き」だという。

一本のマッチを擦れば海峡は目睫の間に迫る
また、富澤赤黄男の次の2句に原型を求める人もいる。
一本のマッチをすれば湖は霧めつむれば祖国は蒼き海の上
寺山は、良くなるんだからいいじゃないか、と悪びれず詠んだ。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
● 寺山が「引用」すると、なぜか叙情性と愛唱性が高まった。
 「寺山さんの中には、終生、叙情の芯のようなものがあった」と『寺山修司著作集』の監修も務めた劇作家の白石征(73)はいう。
 父は戦病死、母は寺山が13歳の時九州へ。青森市で映画館を経営する母の叔父夫婦に育てられた。映画や大衆演劇に囲まれた毎日。空想は鍛えられ少年の寂しさを埋めてくれる詩美と化した。練り上げられた詩美は新たな幻想を吐き出し、後の劇的世界、過剰と欠落
のエロスの楽園や、死と再生の地獄巡りにつながっていく。
 「昭和十年十二月十日に/ぼくは不完全な死体として生まれ」で始まる最晩年の詩「懐かしのわが家」は、こう結ばれている。
子供の頃、ぽくは
汽車の口実似が上手かった.
ぽくは

世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ

     (編集委員・鈴木繁)

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