2013年1月10日木曜日

今、なぜ草間彌生か

建畠哲・京都市立芸術大学長が読む

自我超えた救済の祈り、共感の源今年はクサマ・イヤーとして記憶されるだろう。それぼど草間彌生への関心が国内外で高まった年だった。1950年代から活動を続ける前衛美術家がなぜ、いま脚光を浴びているのか。国内を巡回市立芸術大学長に読み解いてもらった。
 国内でもてはやされる美術家は次々に現れるが、そのことが国際的な名声と結び付い
ている例はきわめてまれ、というかほとんど草間彌生一人ではないだろうか。昨年から
今秋にかけてボンピドー・センター(パリ)やテート・モダン(ロンドン)などの欧米
の名門美術館で彼女の回顧展が開催され、国内でも大規模な近作展が巡回中だ。なかで
も国立国際美術館(大阪)では、22万人という現役の美術展としては空前の入場者数を
記録しているのだ。
 敢然たる異端者
 そんな成功は世俗の話であって、芸術の本質とは関係ないという声も聞こえてきそう
だが、実のところ、草間蒲生は久しくスキャンダラスな異端という誤解にまみれたまま
におかれていたのである。今年で83歳になった彼女の長年にわたる孤独な闘いの軌跡
が、ようやくにして広く認められるようになったという事実を、彼女の再評価に関わっ
てきたキュレーターの一人として素直に喜びたいと思う。
 それにしても、なぜ、今、草間彌生なのか。天才の仕事は時代の先を行き、理解は遅
れて訪れるとは、よくいわれることではある。だがテレビ局がゴールデンアワーの番組
を組み、世界各都市のルイ・ヴィトンの店舗を草間のトレードマークの水玉模様が埋め
尽くすといった状況は、遅れてきた称賛というよりは、むしろ美術の領域を超えたブー
ムの様相を呈しているのだ。
強迫が開く対話

 あえて逆説的にいうならば、草間が社会的にメジャーな存在になりえたのは、アウ
トサイダーであるからこそであろう。ただひたすらな反復という単調極まりない方法
が、絵画、彫刻、インスタレーションから映像にいたるまでの多彩なバリエーションを
もたらしている事実に私たちの目は大いに幻惑されるが、それも彼女ならではの空間を
同じパターンで埋め尽くさずにはいられないという特異な心理的オブセッション(強迫
観念)の産物であるからに違いない。そのような敢然たるアウトサイダーとしての姿
が、(ナンバーワンではなく)それぞれがオンリーワンであればいいという時代のカリス
マ的な存在として、改めて脚光を浴びているのである。
 しかしブームの背後には、より本質的な、もう一つの理由が潜んでいるように思われ
る。同じパターンを無限に反復させる彼女の絵筆は、特殊な精神的病理に駆り立てられ
たものであるがゆえに、一種霊的でもあり宇宙的でもあるイメージをもたらしてもい
る。オブセッシブな情動が、個人的に閉ざされるのではなく、逆に見る者の想像力を触
発する豊かなコミュニケーションの可能性を開いているといってもよい。彼女の作品が、
近代的な意味での自我の表現などというものを超えた、より普遍的な喚起力をもつ世界
として多くの人を魅し、共感を誘わずにはおかないのは、おそらくはそのためなのだ。
 「愛はとこしえ」とは近作のシリーズのタイトルである。そう、草間彌生ならでは
の「愛の源泉」は、心理的な抑圧からの解放の願いが、自己と世界との同時的な救済の
祈りへと昇華しえているところにあるに違いない。地域を超え、世代を超えて親しまれ
る“みんなのアバンギャルド”この年齢にしてなお童女のようなあどけなさを失うこ
とのない不思議なヒロイン。やはり草間は他に類例のないアーティストなのである。
     
 「草間彌生 永遠の永遠の永遠」展は24日まで、新潟市美術館で開催中。その後、静
岡、大分、高知を巡回予定。

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