2012年8月17日金曜日

人間・死・自然、新潟で問う(815asahi)


 新潟県の大地は、3年に二度、現代美術に覆われる。二つの芸術祭が重なって開かれるからだ。大自然に抱かれれば作り手も心を動かされる。観光資源として期待さ
れることもあって、ともすれば善良で楽しい表現に懐きがち。しかし、そこに異を唱え、芸術や風景の本質を問うような作品も目立っている。
「不在」強く印象に残す
 大地の芸術祭

 9メートルの高さまで積み上げられた約20トンの古着の山。その頂から、クレーンが一部をつまみ上げては、また落とす。その繰り返し。心音を思わせる鼓動が響く。
 クリスチャン・ボルタンスキー(仏)の仮設的な作品愕「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ」の交流施設として2003年に十日町市中心部に登場した「キナーレ」が現代美術館に衣替え。その中庭で、この光景に出あう。
 古着の群れはカラフルでダイナミックでもあるが、やはり人の不在、大量の死を思わずにはいられない。ボルタンスキーは、東日本大震災前からの構想を、被災地を実際に歩いた後でも変えなかったという。

 展示場所は、ほとんどの鑑賞者が立ち寄る施設の真ん中。震災後初の芸術祭として覚悟を感じさせる一方、掲げる理念「人間は自然に内包される」の叙情性との距離も気になる。しかし、総合ディレクターの北川フラムさんは、「不可避な死という運命も含めて、人間を包む自然。その前提で我々は生きることを、アートを通して示したい」と語る。
 十日町市と津南町の760平方キロに及ぶ里山や街が芸術祭の舞台だ。3年ごとの開催。5回目の今回は、9月17日までに新旧あわせて約360点を展開する。
 旧松代町の山間部の空き家で展開するマーリア・ビルッカラ(フィンランド)の「ブランコの家」は、旧作をリニューアル。空き家の中で無人のブランコが揺れ続ける。ここにいたはずの子供の不在を措き、過疎や少子高齢化とい
つた問題を神話的に伝える。
 川俣正は、芸術祭のアドバイザーだった美術評論家の故・中原佑介の肇3万冊を、らせん状の本棚に収めた。その中心に立てば、芸術や知とは何か、と考えざるをえない。
 展示場所は、廃校になった小学校。廃校や空き家を使った数々の展示を巡ることは、過疎を体感することでもあるのだ。
 イ・ソンテク(韓国)の「龍の尾」はブナ林に埋もれた屋根。災厄で埋もれたのか、どんな建物がどこまで続くのか、いつの時代なのか、と想像はつきない。
 旧松代町の拠点施設の一つ「農舞台」の内外には、「里山アート動物園」と題して、動物の立体が並ぶなど、もちろん楽しい作品も多い。しかし、大自然の中で現代美術を見せるという画期的な「発明」をなしえたこの芸術祭も、もう5回目。現代美術に何が可能かを、もう一度聞い直している。 (大西若人)

 「転換点」震災を想起水と土の芸術祭 

2回目を迎えた新潟市の「水と土の芸術祭」 (12月24日まで)は、新旧あわせ国内外59.組の66作品が参加する。
メイン会場の新潟港内・万代島旧水揚げ場。かって荷さばき場だった建物内に、骨組みだけの木造家屋や家電製品が散乱する。周囲に並ぶのは、来場者が持ち寄った靴。「大友良英×飴屋法水たち」のインスタレーションは、そうとは謳っていないが、昨年3月のあの光景を想起させる。
 隣には廃油のプールや海水の雨が降る装置で構成された、原口典之の作品。外光の入る大空間で、異なる世界が化学反応を起こす。
 テーマを「転換点」としたのは、東日本大震災後。作品展示のほか、「自然との共生」がテーマの連続シンポジウムもーつの柱だ。
 大乗災の死者の記憶を石に託したというイリーナ・ザトゥロブスカヤ(ロシア)のインスタレーション、風力で「WIND」の文字が光る加藤立の作品など、震災やエネルギー問題に直接触れる表現もある。一方、砂浜に木枠を置いた前山忠の一見「美しい」作品(展示休止中)にも、自然と人間の関係への批評が潜むと感じるのは、見る
側の私たちの心のあり方と無関係ではないだろう。
 プロデューサーとディレクターを新潟ゆかりの人物で固め、地域性を打ち出した今回。住民自らが前回の出展作家に依頼した作品もあり、担い手の広がりも感じられる。
 真に地域に根付いたものとして、「次」につながるのか否か−。今回が芸術祭の意味を問う試金石となるかもしれない。   (増田愛子)

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