2012年7月1日日曜日

時の回廊  安西水丸「青の時代」(626asahi)

一発勝負描き方の原点
 団塊世代の青春時代、雑誌「ガロ」があった。あの時代、「ガロ」は日本の漫画表現の先頭を走っていた。そこから単行本『青の時代』 (1980年)が生まれ、
安西水丸というイラストレーターも生まれた。日々起こる様々な事件を、白身が育った港町の風景と共に描き出した作品は、いまの安西を形作る原型となった。

 僕が平凡社に勤務していたころ、嵐山光三郎さんの小説「怪人二十面相の墓」を漫画化しました。嵐山さんが僕に「絵、措ける?」と聞いてきて「絵なら描けますが」と応じたら、「文章を書いているので一緒にやらないか」となった。その後3年間、「ガロ」に読み切りで連載をしました。この時は自分でストーリーも考えた。それが初の単行本『青の時代』になりました。
 米ニューヨークで働いていたころの話を描かないかと言われたけれど、外国に行ったことのない人にとって、それはあまり興味のないこと。だったら、海があって、母がいて、土地の仲間がいて……という子どものころ育った、南房総の休験の方が措きやすいと。そういうのは誰もが体験しているし、共有しやすいと思いました。「ガロ」の担当編集者だった南伸坊君から「明日、締め切りです」と電話があると、平凡社の地下の図書館にこもってストーリーを考える。まず最後のシーンを考え、それに合わせて話の流れを作っていき、1時間ほどかけて完成させて、先に文章を渡す。帰宅後、午後11暗くらいから午前5時までかかって絵を描き上ける。翌日は徹夜で会社に行く。そんなふうに二足のわらじをこなしていました。
 『青の時代』は僕のイラストレーションの基になっていると思っています。漫画は、風景、人間、乗り物といろんなものを描かなくてはならない。描いていくうちに、いまの画風が出来上がったと思います。便いこなすのが難しいと言われる「丸ペン」も、使っているうちに独特の線が出てきたし、筆圧、インクの量、ペンの紙へのあたり方がわかってきた。
 イラストレーションを描くときに大切にしているのは、「がんばろうと思わないこと」。がんばらなきゃ描けないのなら、まだまだ自分は勉強不足だと思っています。素の自分で向き合い、一発勝負。基本的に描き直しはしない。『青の時代』のころから変わっていません。
 「安西水丸」というペンネームも、このころ決めました。嵐山さんが白分の名前が「あ」で始まるから、僕にも「あ」から始まる名前を勧めた。それで、祖母の名字「安西」に決めました。「水」という漢字の、アンバランスでものかなしい感じが子どものころから好きで「水丸」に。この名前を面白がって、仕事を頼んでくれた編集者もいます。
 僕の知り合ったころ、林真理子さんはコピーライターだったし、柴門ふみさんはお茶の水女子大の学生だった。村上春樹さんもそうだけど、嵐山さんも、南君も、単行本『青の時代』の編集担当だった渡辺和博君も知り合った人たちがみんな偉くなっていく。その流れに乗ってここまできた感じです。
 大学で講師を務めたこともあるけれど、日本の美術教育は石膏デッサンをやり過ぎる。「うまい」 「下手」を重視しすぎていると、その子にしか描けない絵が描けなくなる。教養を身につけていくうちに見る目を失っていく。「有名なものイコール良いもの」では困る。少年の目を持った、孤独な観察者であり続けたいと思っています。(聞き手・山田優)


あんざい・みずまる 1942年、東京生まれ。日本大芸術学部卒業。電通、平凡社などに勤務後、フリーに。87年、日本グラフィックデザイン展年間作家優秀賞。

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