2012年5月22日火曜日

終末論は終わらない(521asahi)

「世界の終わりのものがたり」という展覧会が、東京・お台場の日本科学未
 来館で開かれている(来月11日まで、火曜休み)。ものごとの終わりを意鼓さ
 せ、あやしく人を引き付けてきた終末論に、先端科学技術の博物館で出あうと
 は。書災をはさみ、終末をめぐる文化の風景は変わりつつある。

現実を前に失った力
震災
「終わり」展の見どころは73も掲げられた異聞だ。
 「世界の終わりを想像したことがありますか?」
 「危機がせまっていることを知ったら、残された時間でなにをしますか?」
 重い問いの合間に、新しい科学が紹介される。若返りを続けて永遠に生きるペニクラゲ。大気中に微粒子をまく温暖化防止策。驚きがあったり賛否が分かれそうだったりする事例を参考に、生命や文化の終末を考えさせられる。
 企画した荻田麻子さんは、地球環境議論が前提にする持耗可能性という考えに違和感があったという。「何を持続させるのかはっきりせず、自分のこととして考えるのが難しい。地球を救える気がしなかった」。そこで「すべてのものごとには終わりがある」と観客に問いかけ、一緒に未来を見つめる企画を立てた。
 準備は震災の前から。ただ、原子力発句所の事故で科学への信頼は失墜したと感じる。「科学を分かりやすく、楽しく解説するだけでは子どもの被曝を心配する親の気持ちに応えられない。そこに手を伸ばす試みでもあります」
 世界の終わりや最終戦争というイメージは、物語の世界、特にマンガやアニメなどサブカルチャーでは定番だ。
1973年刊行の五島勉『ノストラダムスの大予言』は大ベストセラーになり、99年7月の世界滅亡を主張した。今年12月にはマヤ文明の暦が終わり、世界も終わるという説が流れている。
 だが、震災後のサブカルチャーで終末論が盛り上がっているとはいいがたい。終末論的な想像力はオウム真理教の地下鉄サリン事件以来力を失った、というのは評論家・宇野常寛さんだ。「終末論は、70年前後に敗れた革命の代替物だったのだと思います」
 宇野さんは、集災後の想像力の姿を示す作品に、AKB48の記録映画「DOCUMENTARYOfAKBA48」を挙ける。「被災地を慰問し、自衛隊に見守られて歌い踊るAKBは、80年代のアニメでよく描かれた終末論的未来像を強く想起させる。終末論的な想像力が現実に追い抜かれ、もう力を持たないことを示している」
未来世代へ配慮生む
脱原発
 思想・哲学の分野では、終末論を考察する著作が相次いでいる。文芸評論家・すが秀美さん(近畿大数援)の『反原発の思想史』 (筑摩選書)は反原発運動の歴史の中に終末論を読み取る。
 とりわけ、 88~89年にニューウエーブといわれた盛り上がりは、原発事故による終末を説き「『ノストラダムスの大予言』とさえ呼応していただろう」と書く。終末論は「もっとも人を組織するに容易なイデオロギー」だが、終末の希求は必ず飴の終末にすり替えられ、運動は終息するというのがすがさんの頼察だ。
 「終末論的なユートピア主義は戦前にもあり、近代の一つの病でしょう」と桂さんは話す。「戦後は、原爆投下で端的に世界が終わっているという意隷が広く共有された。終末論は内容が不明のまま、幽霊のように徘徊している」
 対照的に、終末論を脱原発への重要なカギとみなすのが社会学者・大澤真幸さんの「夢よりも深い覚醸へ』 (岩波新書)だ。
 ドイツの素早い脱原発への転換に、大澤さんはキリスト教の伝統を見つめる。終末論はキリスト教の重要な教義の一つだ。いつか来る歴史最後の日に審判が下され、祝福された者は神の国に入る。そんな究極の未来から現在を評価する愚考の習債は、世俗化された現代にも引き継がれたと大澤さんは考える。
 原発が出す放射性廃棄物の処理は10万年もかかる。未来世代との連帯が不可欠だ。未来の他者への配慮は終末論的な思考習慣から導き出され、脱原発に寄与したのではないか、というのが大澤さんの見立てだ。
 「日本でも終末論をポジティブに活用できないかと考えました。終末はすでに来てしまったと考えることで、終末を避ける決断ができるのではないでしょうか」
 終末論の取り扱いは大変やっかいだ。だがそこに文化の面白さもある。
    (編集委員・村山正司)

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