2012年2月10日金曜日

アンゲロプロス監督を失って(131asahi)

どれだけ思い出を語れば
「旅芸人」の驚き、今も

 不意の事故で親しい誰かを失う、ということが人生にあることを知らないわけではなかった。去年の三月十一日以来、我々はそれをいっそう強く白光していたはずだ。
 それでも、ばくはまだテオ・アンゲロブロスの死をきちんと受け止めることができない。運命が暴力的に彼を奪っていったことが居じられない。歳のせいもあって最近は友人を失うことが多いのだが、それにしてもこんなことが起こるとは。
 今を見据える力が足りないから、しかたなく視線は過去に向かう。テオとの出会いを辿りなおす。
 初めて彼の映画を見たのは一九七六年の四月一日、場所はその頃ばくが住んでいたアテネのアパートメントから三軒隣のエリゼという映画館だった。
 作品は「旅芸人の記録」。まずもって圧倒された。それまでに見てきたどんな映画にも似たところがない。
 自分はたぷんこれを一部も理解していないけれど、何かとんでもなく大きくて奥の深い映画だ、ということはわかった。難解といえば正に難解だが、拒絶されたのではなく強い力で引き込まれた。できれば全部がわかるまで何度も見たいと思った。
一九七八年に日本に戻った後で、全部がわかるまで見る機会が与えられたのは我が人生の幸運の一つだ。日本での公開のために字幕を作る仕事に加わって、いわば特権的にくりかえし見た。時にはフィルムの一朗をルーペで見てポスターの文字を確認するようなことまでした。スクリーンに対時する究極の視線となった。
 以来、「エレニの旅」まで十二本の作品の字幕を作ってきた。未公開の「第三の翼(仮題)」の字幕も同じように作るだろうし、それに続く「もう一つの海(仮題)」の字幕も作るはずだった。クランクインして一か月で監督を失って「もう一つの海」は未完に終わった。これに対して未完の字幕というものが求められるのな
らば、青んで作りたいと思う。
 「旅芸人の記録」毒初めて見た時の薫きは今でも贅きのまま残っている。どうやればこんな映画が作れるのか?どうしてこんな映画を作ろうと思い立つことができたのか? 軍事政権の抑圧のもとで、そんな勇気がどこから湧いたのか?
 親しく行き来するようになってから、ばくは何度となくテオにこういう質問をした。わかりやすい答えは返ってこなかった。作ろうと決めて目前仇恥部を次々に越えてゆくうちに、気がついたら完成していた、ということらしい。制作の途中で軍事政権は倒れ、その解放感もあってたくさんのギリシャ人がこの映画を見た。その余波が十万人の観客を集めた日本での公開だった。
 こんなこと、テオとの長いつきあいのほんの一部でしかない。「こうのとり、たちずさんで」の中に「家に着くまでに何度国境を越えることか?」という聞いがある。どれだけ思い出を帝ればばくはテオがもういないということを納得できるのだろう。
池澤夏樹  作家

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