2012年2月26日日曜日

建石修志展

美術学科の建石修志の個展のお知らせです。
2012年3/6(火)~3/18(日) 期間中無休 10:00~19:30
渋谷東急本店 Bunkamura Gallery
「leaf/poetry Ⅱ─表層から紙片の狭間へ」
建石のここ近年の、平面作品、オブジェ作品など80点余の展示。
http://www.bunkamura.co.jp/gallery/exhibition/120306tateishi.html

2012年2月20日月曜日

装丁家/グラフィックデザイナー 名久井直子さん(220asahi)

出来る全ての事で本を送り出す母心かな 

  なくい・なおこ●1976年岩手だ生まれ 武蔵野美術大学卒井後、広告会社にアートディレクターとして勤務。在職中に友人である歌人・錦見映理子の歌集の装幀を手がけたことから本の仕事がスタート。2005年に独立し、ナンクデザインを始め、紙まわりの仕事に携わろ。年間にデザインを手がける本は100冊近い。主な装丁本に「やわらかなレタス」(江國香織/文芸春秋)、「本日は大安なり」(辻村深月/角川書店)、「すべて真夜中の恋人たち」(川上未映子/講談社)ほか多数。

 小説、辞典、絵本の装丁、雑誌の表紙など名久井さんが手がける分野は広く、書き手本人から「名久井さんの装丁で」と指名されることも多い。それは激戦区の書店で売れることも意味するのだろう。
 美術大学を出て初めに就職したのは広告会社。アートディレクターとしてだった。一つの広告に大規模な予算と時間をかけ、半年以上も練り上げたものが、はんの一週間ほどで打ち上げ花火のように消えていくことになじめない感覚があったそうだ。
 「素晴らしいクリエーターの方と仕事が出来るのは、とても刺激的です。でも作ったポスターなどは、物として誰の手にも届かない(笑)。それが残念でしたね」
 だが、本業とは別に手伝った友人の本の装丁が、編集者の目に留まった。会社の仕事をしながら次々と装丁の依頼がくる。こっちの制作の方が好きだと思いながらも、名久井さんは数年闇両立させて頑張り、100万円をためてから独立する。
 「ダメもとです(笑)。パソコンも使えるし、いざとなれば食べるぐらいのことは出来ると患って」
 でも、その日から装丁の仕事が途切れたことはない。作家が書き終えたゲラを読み、まずふわふわと慕ってくる「世界」を巫女さんのように感じ取ることから始まると笑う。
 「どれ一つ同じ世界はありません。だから、私が感じたことを読者の目に、手に訴えるために、紙、書体、デザイン、行間、帯、そのはかあらゆる感覚を総動員しますね。出来うる限りの全てを持たせて、送り出してあげたい、というお母さんの心境なんです。持たせ忘れたと後悔したくない。そして向こうで売れておいで、
と」(笑)
 ある本では、外国から名久井さんに届いた少年の手紙のl文字ずつを切り取ってタイトルにしたそうだ。「そこまでやるか」と感嘆した作者がエピソードを伝えるはどのこだわりよう。町へ出れば古いそば屋の箸袋を持ち帰ったり、気になるものは拾い集めたり。
 名久井ワールドは面白い。 田中美絵=文 南條良明=写真

2012年2月16日木曜日

写真そっくり超絶技巧平久弥展(215asahi)














 エスカレーターや階段といった硬質な都市風景をとらえた写真−。平久弥(1960年生まれ)の個展に並ぶ14点の多くは、印刷物やネットで見た場合はもちろん、現物を前にしても、少し離れていれば写真にしか見えない。だが実際は、絵の具で措かれているのだ。
 近年、国内では人物などの精細な写実に情感を込めた表現が注目を集めるが、平の表現は、主観を排したフォト・リアリズムの系譜か。70年代の米国を中心にした動向で、写真という覆製物をそっくり描き、ポップアートに近いとされる。
 平は、ガラスの透明感や金属の光沢といった絵の具では実感描写の難しそうな対象まで、見事に再現。都市の写真化の絵画化というコピーの反復の結果、写真か絵画か見分けるには、展示場で現物を凝視するほかない事態に。デジタル時代にローテクな超絶技巧によって、ひと昧違う“オリジナル信仰小が生まれる可能性も漂う。        
(大西若人)
 ▽26日まで、東京・広尾5の19の4      1223現代絵画。月、火曜休み。500円。

爆発的な才能の発露から自裁へ(212asahi)

30秒に燃えつきた生涯
 川村蘭太(著)

 リッチでないのに リッチな世界などわかりません ハッピーでないのに ハッピーな世界などえがけません「夢」がないのに 「夢」をうることなどは・・・・・・とても嘘をついてもばれるものです
  テレビCMの花形ディレクターだった杉山登志は、こんな言葉を残して1973年に自殺した。本書は、37歳で閉じた杉山の生渾を追いつつ、いまも衝撃力をもつ遺文の由来と意味するものをまさぐっている。
 石油会社のCM。「ノンビリ行こうよ俺たちはー・なんとかなるぜ、世の中は」。そんな言葉が流れ、2人の男が両脇から古いダットサンを手で押して行く。高度成長期、モーレツ社長という時代の言葉に逆行する慰札と映像だっ一た。締めは「車はガソリンで動くのです」。杉山は、こんな秀抜な「消耗商品」を年間八十教本も制作していた。
 画家を志したこともあったが、縁あってCM制作会社に籍を置く。ナイーブな、翳りを宿した青年は業界の先駆者となってひた走る。
 名声、外車、酒と女。多くを手に入れつつ、亀裂と空洞は広がっていく。好きな作品
はという問いに「ないですね」と答える。「いやだなあ、この職業は」とつぶやきつつ、「CMが当たる、当たらないは二の次だ。商品が美しくあればそれでよい」とも口にする。
 十数秒、あるいは数十秒の虚の世界。そこに、自身の逃げ場のない「生き方」をも込
めていた。だから才能が爆発的に発露したのだろう。走り切って白裁する。それはもう
(自然)とさえ思えてくる。
 著者は「事実」の確認というこだわりをもって鬼才の足跡をたどる。少々肩の凝るペ
ージもあるが、杉山への愛惜の念があふれている。仮構(バーチャル)がますますは
びこる今日、灘された言葉は消耗されることなく世をさまよっている。
評・後藤 正治(ノンフィクション作家)

2012年2月11日土曜日

脱原発10万人集会呼びかけ(208asahi)

大江さんら都内で7月
 脱原発をめざす作家の大江健三郎さんらが8日、東京都内で会見を開き、全国各地の原発立地自治休の首長にあてて、停止中の原発を再稼働させないよう求める要請文を発表した。7月16日には都内で10万人規模の集会を予定していることも明らかにした。今月11日には東京・代々木公園で集会が開かれる。昨年9月、垂泉・明治公園での集会には約6万人が参加した。
 会見で大江さんは「倫理という言葉を、日本人は新しい意味で使い始めた。倫理に責任をとろうとするなら、今、原発を廃止するという決断を示さなければならない」と語った。
 大江さんは「さようなら原発一千万人署名市民の会」の呼びかけ人の一人。呼びかけ人はほかに作家の落合恵子さん、ルポライターの鎌田志さん、音楽家の坂本龍一さん、詩人・作家の辻井喬さんら。

2012年2月10日金曜日

身体から紡ぎ出す(208asahi)


 現代社会や人間像を見据えた作品群で評価を得てきた日韓の女性作家による大規模な個展が今、首都圏で開かれている。画家の松井冬子(38)と現代美術家のイ・ブル(48)。これまでの歩みが概観できる展示からは、彼女たちが投げかける問いが浮かび上がってくる。
◉「松井冬子展」
「痛み」共有できたら
 


狂気や死の気配が息苦しいぼど立ちこめる世界を、日本画の技法を生かし現出する。横浜美術館の「松井冬子展」 (3月18日まで)では、そんな松井の10年ぼ
どの仕事ぶりを味わえる。
 「女、メス、リアリティーのあるものしか措きません」と松井は言う。その借
念に貫かれた約100点が、「受動と自殺」 「ナルシシズム」など九つのテーマに分けて招介される。
 「プロとしての第一歩」と振り返るのが、2002年の「世界中の子と友達になれる」。少女のつま先は血にまみれ、取り巻く藤の花にはスズメバチが群がる。東京芸大の卒業制作で、松井の方向性を決定づけた。この作品は、本展の副題にもなっている。
 最近の充実ぶりは、たとえば九相国からうかがえる。人間が死んでから骨と化すまでの9段階を措いた鎌倉時代の連作から想を得た。すでに発表した5点を並べると、新しい作品ほど画面が澄んでいる。「網に合うように、粒子の細かい岩絵の具で強く発色するものを使っています。技術的にうまくなったかなあ」
 作品は綿密な計算で構築している。「世界中の~」は、写生を重ね、ゆりかごや少女の配置の異なる下図をいくつも試みた。写生や下図は「見せないもの」と考えていたが、あえて本泉に出した。「イメージがしっかりあって練っている、その過
程を理解してほしかった」
 「痛み」を措き続ける。「痛みは孤独な感覚で、他人には伝わらない。でも
(絵という)視発から得られる什報で、その構みを共有できたら」。万人に伝わ
らないことはわかっている。「1万人に1人の割合でもスカンと暮ん中に入れば十分。伝わると居じています」    (新谷祐一)

◉韓国の現代美術家「イ・プル展」
人間の条件語りたい
 身体から都市風景へ。

 東京・六本木の森美術館の「イ・プル廣」 (5月27日まで)に表れる彼女の20
年の歩みは、そんな風に形容できる。
 人間の腋器が肥大化したような布製の彫刻。冒頭、ひりひりする切迫感を伴う
1989年の表現に出あう。「不条理な世界への抵抗であり、既存の彫刻とは違う表現を選びました」
 軍事政権から民主化へと動く時期に「アーティストなら制約がない」と選んだ
通。内面が表出したような彫刻を身にまとい、パフォーマンスを繰り返した。
 97年ごろにサイボーグのシリーズを始める。人体改造、遺伝子操作、ロボット
といった現代の知と欲望と痛がうずまく存在を、日本のアニメを思わせる硬質さ
と、ギリシャ彫刻の崇高さを重ねた白い立体で表現。生命科学の暴走を連想させ
るモンスター的作品も含め現代の空気をすくい取って国際的評価を高めた。
 2005年ごろから、歴史上の理想郷などを参照した都市風景的立体へ。エスペラント語の電飾でユートピアに関する言葉を伝える塔状の作品や、複数の理想建築が集合する模型状の「私の大きな物語 石へのすすり泣き」 (05年)だ。
 しかしその都市風景は、小さな部品や断片の積み重ねで生まれ、鏡面の床の上
で浮遊感を醸す。「世の中は部分や小さなできごとによってしか把撞できない」
と語るイ・ブル。その身休から紡ぎ出されたドローイングを組み合わせ大作にし
てゆく点では、身休の延長上にあるともいえる。
 文化や社会の違いを超えて「普遍的な人間の条件について語りたい」と話す。
誰もが持ち、痛みや欲望の起点となる身体からの表現と、過去作を「当時は野心
だけが大きくて、準備が足りなかった」と振り返る聾実さが、それを支える。-
 混迷の続く21世紀、「アートに答えは出せないが、大きな問いを考えるきっか{
けにはなる」。(大西若人)

ピンと張った背の軸(131asahi2)

石岡瑛子さんを悼む

 周到な準備と強い意志のもとに、石岡瑛子がニューヨークを本拠として選んでから30年ほどの年月が経った。
 世界を舞台に活躍するという形容がぴったりの芸術活動で知られる石岡さんの急逝には、彼女に直接面識がなくてもその仕事のイメージを見ていた多くの人たちが驚き、私を含め仕事を共にした各国の仲間は深い悲しみに沈んでいる。
石岡さんは1970年代の東京で、グラフィックデザインを中心にアートディレクターとして強い存在感を示しているが、それは広告一つにも時代を見すえ、社会的なメッセージを盛りこむ意気込みあってのことだった。「女性よ、テレビを消しなさい」と角川文庫で、「西洋は東洋を着こなせるか」とパルコのファッション広告で呼びかける。
 正義感というと大げさなようだが、石岡瑛子の背筋にはピンと張った軸線があって、女性が顕在化し、はっきりした表現を示すことを望み、もちろん男性にも対等にそれを認めるよう求めた。広告主の経営者とは直接会い、アイデアの理解を徹底した。
 フォトグラファー、イラストレーター、コピーライターなどの若い才能がいっせいに開花しはじめた頃で、石岡瑛子はそれら同時代のクリエーターのすぐれた才能との共闘で新聞、雑誌、テレビなどのメディアに切り込むリーダーシップを発揮した。フェミニズム私凰柳はしなかったけれども自らの行動でそれを示していた。その自借の基盤には昭和のリベラルな思想と愛情をもって娘を見守った両親の存在がある。
 広告も、発想から定着まであらゆるプロセスを完壁につくりあげたからこそ、それは自立する作品となり、海外のクリエーターの注目を集めることになる。
 EIKO by EIKO』という作品集の出版を機に東京を後にするが、グラフィックデザインの分野に安住することを望まず、仕事の領域を広げて自分により高い妻求をつきっけることを考え、実行したのだった。
 フランシス・コッポラ監督は『EIK0 0N STAGE』の序文で「領域など無いことを知っているアーティスト」と書いているが、チャレンジとレボリューションを常に語っていた彼女の口から、あのやわらかで少し鼻にかかった声を聞くことはできなくなった。
 ロング・グッバイエイコ!
小池一子   (クリエイチイプ ディレクター)

アンゲロプロス監督を失って(131asahi)

どれだけ思い出を語れば
「旅芸人」の驚き、今も

 不意の事故で親しい誰かを失う、ということが人生にあることを知らないわけではなかった。去年の三月十一日以来、我々はそれをいっそう強く白光していたはずだ。
 それでも、ばくはまだテオ・アンゲロブロスの死をきちんと受け止めることができない。運命が暴力的に彼を奪っていったことが居じられない。歳のせいもあって最近は友人を失うことが多いのだが、それにしてもこんなことが起こるとは。
 今を見据える力が足りないから、しかたなく視線は過去に向かう。テオとの出会いを辿りなおす。
 初めて彼の映画を見たのは一九七六年の四月一日、場所はその頃ばくが住んでいたアテネのアパートメントから三軒隣のエリゼという映画館だった。
 作品は「旅芸人の記録」。まずもって圧倒された。それまでに見てきたどんな映画にも似たところがない。
 自分はたぷんこれを一部も理解していないけれど、何かとんでもなく大きくて奥の深い映画だ、ということはわかった。難解といえば正に難解だが、拒絶されたのではなく強い力で引き込まれた。できれば全部がわかるまで何度も見たいと思った。
一九七八年に日本に戻った後で、全部がわかるまで見る機会が与えられたのは我が人生の幸運の一つだ。日本での公開のために字幕を作る仕事に加わって、いわば特権的にくりかえし見た。時にはフィルムの一朗をルーペで見てポスターの文字を確認するようなことまでした。スクリーンに対時する究極の視線となった。
 以来、「エレニの旅」まで十二本の作品の字幕を作ってきた。未公開の「第三の翼(仮題)」の字幕も同じように作るだろうし、それに続く「もう一つの海(仮題)」の字幕も作るはずだった。クランクインして一か月で監督を失って「もう一つの海」は未完に終わった。これに対して未完の字幕というものが求められるのな
らば、青んで作りたいと思う。
 「旅芸人の記録」毒初めて見た時の薫きは今でも贅きのまま残っている。どうやればこんな映画が作れるのか?どうしてこんな映画を作ろうと思い立つことができたのか? 軍事政権の抑圧のもとで、そんな勇気がどこから湧いたのか?
 親しく行き来するようになってから、ばくは何度となくテオにこういう質問をした。わかりやすい答えは返ってこなかった。作ろうと決めて目前仇恥部を次々に越えてゆくうちに、気がついたら完成していた、ということらしい。制作の途中で軍事政権は倒れ、その解放感もあってたくさんのギリシャ人がこの映画を見た。その余波が十万人の観客を集めた日本での公開だった。
 こんなこと、テオとの長いつきあいのほんの一部でしかない。「こうのとり、たちずさんで」の中に「家に着くまでに何度国境を越えることか?」という聞いがある。どれだけ思い出を帝ればばくはテオがもういないということを納得できるのだろう。
池澤夏樹  作家

「見る」超えたアート(130asahi)


  「目で見る」ことを超えてアート作品を感じ、内面を豊かに広げてほしい。そんな思いで創作を続ける美術家がいる。見えないからこその表現を追究し、鑑賞法に工夫を凝らす。美術館も目の不自由な人に向けた取り組みを進めている。

 全旨の芸術家と学生、対話し制作

 和太鼓の力強いリズムが展覧会場に響き渡る。10歳の頃に失明した京都市の美術家、光島貴之さん(57)が、色とりどりのテープやシートを即興で切り抜いては、言葉で説明し、壁のシートに貼り付けていく。「いま黄緑色のテープで、画面の端に、渦巻きを描いています」。そんな説明に合わせ、和太鼓奏者の片岡亮太さん(27)が音を紡ぐ。片岡さんも全盲だ。
 21日、神奈川県相模原市の女子美術大学美術館で、こんな公開制作が行われた。美術館では昨夏から、光島さんと11人の学生が絵画や彫刻について話し合いながら、抱いたイメージを元に作品を共同制作したり、互いの作品に触発されてのリレー制作を行ったりしてきた。2月5日まで開催中の「input→Output」展(火曜休み)で、成果を見られる。鍼灸院を営む光島さんは30代半ばから、粘土造形や、平
面にテープやシートで凹凸を生む「触る絵画」を制作、画廊や美術館で発表してきた。「マイナスがプラスに転じる創作活動を通じて、自分もこの社会に存在していいと思えるようになった」と語る。
 今回、初めての共同制作で、光島さんは、学生と一緒に買い出しに行き、針金や鎖、ボタンなど、使ったことのない素材に挑戦した。「作家としての転機になると思う」と話す。
 学生との共同作業は、誤解と修正の積み重ねだったという。たとえば学生が、描かれた人の頭部を「巻き尺のよう」と表現した際は、最初に抱いた機械的な印象に引きずられ、制作に向けてしっくりこないこともあった。言葉で鑑賞することの危うさを感じた。だが、「そう見える人もいるのだと思った時に、自分の中で広がりが出て、おもしろくなった。答えは一つじゃないんです」という。
 参加した学生たちからは、「思いや情報を伝えるだけでなく、受け取ることに意識的になった」などの声が上がったという。担当学芸員の梅田亜由美さんは「双方に発見や刺激があり、作品への見方が深まる」と話す。

香りつき・大きさ違う粒で「スナエ」触る・かぐ

 「スナエ」はハーブの香りをつけた砂とサンゴの粒をキャンバスに張って描く「触って、においをかぐ絵画」だ。富山市の美術家、高橋りくさん(娼)が考案した。赤はローズウッド、紫はラベンダー、緑はセージなど15の色ごとに香りを決め、粒子が粗くなるにつれて色が濃くなる。
 3年前から始めた取り組みの背景には、亡き父への思いがある。3歳の時に石目を失明した父は、娘が美術家になることに反対したものの、後には温かく見守ってくれた。だが20年前、病気で左目も見えなくなると医師に宣告され、64歳で命を絶った。
 「亡くなる数日前に父から電話があり『人間は、一つの道を貫くことが大切』と。生きていたら、スナエを楽しんでくれたはず」。そんな思いで作品を視覚障害者の施設や学校などに寄贈。2月4日まで、東京・三軒茶屋の画廊ガルリ・アッシュ(月曜休み)で8点を披露している。
 市民や研究者グループ、美術館も動き始めた。横浜美術館(横浜市)は一昨年から、宙視や全盲の人たちと検討会を重ね、鑑業ガイド作りや、ボランティアと対話しながらの鑑菓会を試行してきた。
 関淳一・同館創造支援担当グループ長は「本物の作品の前でしか感じられない力            があり、視覚を超えた『観る』ことの意味も考えさせられる」と話す。2月25日には常設展で、6月には「マックス・エルンスト」展で鑑賞会を開く。同様の取り組みは、各地の美術館で広がりつつある。 鑑業者の活動では、東京の
「MAR(マー)」 (http://www2.gol.com/users/wonder/mar/martop.html)
、京都市の「ミュージアム・アクセス・ビュー」(http://www.nextftp.com/museum-access-view)などの市民グループが、鑑賞会や創作のワークショップを開いている。(小川雪)