2011年9月17日土曜日

終わりと始まり(9/6 asahi)

池澤夏樹
 ■「ツリー・オブ・ライフ」を見る
宇宙誌と霊の世界

 芸術には形式が要る。
 普通の創作者は広く用いられている形式を頼って自分の作品を作る。
 しかし中にはその形式の枠を踏み越えて新しいことを試みる、真の意味の創作者もいる。
 テレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」は形式の枠を壊す勇敢な新しい映画である。
 ストーリーは何の仕掛けもない単純なもの。一九五〇年代のテキサスの小さな町に若い夫婦がいる。暮らしは安定しており、二人の間には次々に三人の男の子が生まれる。長男が思春期を迎える頃まで、三人が育ってゆく姿が丁寧に描かれる。
   
 始まってすぐのところに、二番目の子が十九歳で(おそらくはベトナム戦争で)亡くなったことが伝えられ、両親が悲嘆に暮れるという場面がある。
 しかし、この家族にそれ以外にドラマティックなものはない。彼らは特別な家族としてではなく、いわば普通の家族の代表としてそこにいる。
 家庭内に緊張があるとすれば、子供たちへの愛にあふれているのに厳格に育てなければならないと居じている父親(ブラッド・ピット)の矛盾をはらんだふるまいと、それに耐えて育ってゆく長男の心理だろうか。子供たちと夫の間の微妙な位置に立ってよく遊ぶ母親の野放図な愛が心地よい。
 昨今のハデハデな娯楽作品に比べればまこと波乱の少ない展開だが、それを補うべく場面の一つ一つは緻密に撮られている。とりわけ長男ジャックと次男R・Lの演技はすばらしい。幼い俳優からこの表情を引き出した監督の演出力は尋常でない。
 その上で、この映画は二つの方向へ逸脱する。家に例えればt、一見したところ平屋のように見えて実は広い地下室と明るい屋根裏が隠れている。
 先に彼らは普通の家族の代表だと書いたが、それは人間の代表、ヒトの代表という意味でもある。スクリーンは世界の創世からこの子供たちの誕生に至るまで、宇宙誌をさまざまな自然科学の画像で見せる。天文学と地史と生物学から提供された美しい画像の数々を経て生まれたての赤ん坊の足に行き着くところは感動を誘う。これは存在の大いなる肯定である。
 もう一つの逸脱は霊の世界へ、あるいは生きてあることの意味づけの方へと向かうものだ。
 この家族の物語を中年になった長男(ショーン・ペン)が振り返る。彼の心の中に残った幼い時の自分の視点が実はこの映画の主要部分を成している。その中で少年である彼はしばしば神に帝しかける。何かを願うのではないから祈りではない。あなたは誰なのか、何なのかと執拗に問いかける。彼の母もまた同じことを問うていた。
 彼は長じて建築家として成功し、高層ビルの中を忙しげに行き来している。しかしその表情はうつろだ。
 映画の最後で彼は夢想の中の荒野に立つ境界の門をくぐり、霊の世界の渚で自分の記憶の中の人々に出会う。自分が幼い時のままの父や母がおり、弟がおり、その他たくさんの人たちがある方向へ向けて歩いているのに合流する。和解と調和の光が満ちる。
 この映像の力に、言葉はとてもかなわないと思った。
 「ツリー・オブ・ライフ」にキリスト教の色は濃い。そもそも「生命の木」とは旧約聖書でエデンの園に「善悪の知識の木」と並んで生えていた木だ。
 だが、人間はこの世界で他の被造物の上に立つ別格の存在であり、神の愛でる子である、という楽天的な世界観は採用されていない。
 映画の最初に「ヨブ記」からの言葉が掲げられている(わかりやすく加筆して引用する) -

 わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか?
 夜明けの星はこぞって喜び歌い、神の子らはみな喜びの声をあげた、その
(天地創造の)ときに?

   
 信仰篤いヨブを神は災厄を送って試す。それでもヨブは揺るがない。最後になって出てきた疑念を神は打ち砕き、ヨブは最終的に神に帰順する。
 大事なのは世界は人間のために作られたのではないということだ。人間が登場しなくても世界は完結していた。それでも我々は「神は与え、神は奪う。その御名はほめたたえられよ」と言わなくてはならない。
 家族がずっと考えているのはこのことだ。今、東日本大震災の後でばくが考えているのもこのことだ。キリスト教の信仰とは別に、なぜ震災でたくさんの人が亡くなったのか、なぜ大地は揺れるのか、その先のどこに生きる意味があるのか?
 この映画にも何か手がかりがあるような気がするのだが。  (作家)

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