2011年6月7日火曜日

大震災で見た「神様のない宗教」(607asahi)

許して前を向く日本人



 2007年に東北の農村を舞台にした漫画を描いた。金融の世界で心身ともに疲弊した元銀行員の主人公が、お金を一銭も使わない生活をすべく農村に移住する着である。村にいた神様が死んでしまい、空から日本中にザリガニが降ってくるという最終話を描いていたら、リーマン・ブラザーズが破綻し、そのあとオタマジャクシや魚が空から降ってきたなどというニュースをテレビで見るにいたっては、なんだか自分のデタラメなヨタ話が当たったような気がしていたものだ。
 そして、長年構想し、昨年から措き始めた信仰、宗教をテーマにした作品は、主人公が神様に会えたかどうかという場面が、弟1部の最終話だった。エンディングに迷ぃに迷った末「神様はいなかった」という結末は、第2部に持ち越すことにした。その最終話が編集部に届いた翌日、東日本大震災が起きた。
 仙台市の住人として被災し、その夜、避難した小学校の体育館で一睡も出来な
かったのは、激しい余震と底冷えのする寒さのためだけでなく、不吉なものを感
じていたからだ。
 電気が通じると、私はテレビの前から離れられなくなった。一漫画家の気のせ
いか、思い過ごしであるはずなのだが、まさに「神様などいない」無慈悲な光景
が繰り返し繰り返し流されつづけた。
  □   □
 テレビや新聞で見る限り、誰も神様の話などしていない。誰もが人間の話をしていた。流された家屋、失った家族の命、跡形もなく消えてしまった故郷。そして、それを慰め、手を差し出し、元気づけようとする人々。ありとあらゆる人間の不条理を眼前にしながらも、みんながみんな、まるで信仰のように人を信じていると、私は思った。神様のない宗教がそこにあったのではないだろうか。
 私はそんな風には人を信じられない人間である。人を居じることが出来ないの
で、自分はどこから来てどこへ行くのか、この世界はいったいなんなのか、なぜ
生まれたのか、そんなことばかり考えて来たはずなのだ。
 それらを棚上げして、ひとまず生きていくということは、親を殺され、殺した
犯人を捕まえようともせずに、ただ毎日のうのうと生きている者のようにさえ私
には思えていた。しかし、被災した人々の顔には諦めと覚悟と、時にほほ笑むほ
どの清清とした表情があった。この人たちは自分の親を殺した犯人をさえもう許
していたのだろう。
  □ □
 近年、いろんな不条理が日本を襲いつづけた。派遣問題、高齢化、孤独死、い
じめ、虐待死、人が人を信じられなくなっていたように見えたし、私自身、人が
作る−電化製品、服、映画、音楽、小説、そして漫画−にさえ魅力を感じなくなっていた。その揚げ句の震災と福島原発危機だったはず。
 宗教の言葉でいうところの法難の様相さえ帯びていたこの3カ月間の日本を見
るにつけ、そこになにかの意志と意図を感じないわけにはいかない。これほどの
災害を勝手な決めつけで語ることはしてはいけないのかもしれないし、それこそ
漫画家の気のせいと思い過ごしかもしれないが、私には日本人が人を居じること
をやめないという決意を表したように見えた。
 9・11のあとにアメリカはビンラディンを殺害したが、3・11のあとに日本は
どうするのだろう。日本は誰かを殺すだろうか。
 我々は誰も殺したりはしないだろう。それは我々の相手が自然災害だったから
ではない。我々は原爆を落とした国をさえ許したのではなかったか。我々はまた
許すのだろう。許すことが正しいか正しくないかではなく、許すことでしか前を
向けないことに我々はもう気がついているのではないだろうか。
 今度は神様を許すことになるとしても。
   
漫画家 いがらしみきお
 1955年生まれ。仙台市在住。79年デビュー。88年「ばのばの」で講談社漫画賞。著書に『ネ暗トピア』 『Sink』 『かむろば村へ』など。宗教をテーマにした「工(アイ)」を月刊「イッキ」に連載中。

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