2011年2月18日金曜日

美の季想 解釈の喜び 創造に参加(216asahi)



芭蕉の紀行文「野ざらし紀行 のなかに、「奈良に出る道のほど」という前詞をつけて

 春なれや名もなき山の薄霞

 という一旬が見られる。前後の関係から、お水取りの行事を見るために伊賀の皇を出て奈良へ向かう途中の吟であることがわかる。時期は旧暦2月10日ごろである。
 ところが、芭蕉白身が残した紀行文の初稿とされるものでは、この句の下五は「朝覆」となっているという。つまり芭蕉は、当初早朝の景として「朝霞」としていたものを、後に「薄霞こと改めたことになる。
 現代のわれわれの感覚から言えば、すでに立春を過ぎたころ、爽やかな朝の冷気を含んだのどかな早春の感じを伝える「朝磨この方が、一句の姿が鮮明になって印象が強いように思われる。「薄霞」では、その印象が曖昧になるのは免れない。芭蕉白身、そのことに気づいていなかったはずはないが、それにもかかわらず彼は、あえて曖昧な言い方を選んだのである。
 このいささか不可解な改変について、かつて安東次男が、それは芭蕉が真の俳諧師だったからだと論じたが、私はその静を読んでなるほどと納得した。もともと俳句は、連句の発句が独立したものである。発句ならば、それは次に脇句がつけられることを前提とする。「薄霞」を朝の景と見定めるのは脇旬の役目であろう。もし脇句が、それを夕霞と見定めれば、そこにはまた別の世界が展開される。曖昧さは解釈の多様性を保証するものであり、また鑑賞者の参加を求めるものでもある。
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 詩の場合だけに限らず、音楽や絵画でも、鑑賞者、つまり受容者が解釈を通じて創造行為に参加することをうながすような作品を、ウンベルト・エーコは「開かれた作品」と呼んだが、「薄霞」はまさしくそのような「開かれた作
品」の例である。解釈は時に、作者の意図を超えて思いがけない広がりを見せることもあるが、それもまた、芸術の豊かさを示すものであるだろう。
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 現在、東京・六本木の国立新美術館で開催されている「シュルレアリスム展」の出品作のなかに、鑑賞者の参加によって予期されない新しい世界が開かれた興味深い例がある。シュルレアリスムの先駆とも亭つべきキリコの「ギヨーム・アポリネールの予兆的肖像」がそれである。サングラスをかけた郡部像や、魚や貝の鋳型など、謎めいた事物が描かれているなかで、特に奥の開かれた空間に影絵のような黒いシルエットを見せるアポリネールの頭部に、白い半円形が描き込まれていることが、シユルレアリスムの仲間たちの想像力を強く刺激した。詩人で批評家でもあったアポリネールは、早くからキリコの作品を高く評価した一人であったが、第1次大戦に参加して頭部を負傷した。影絵に見られる白線の半円形は、この負慣を予言したものだというのだが、作品が措かれたのは戦争の始まる前だから、この解釈はあとから作られた神話である。だがそれが作品に新たな神秘的次元をつけ加えたとしたら、それもまた芸術世界の広がりを示すものとして、芭蕉ならよしとしたであろう。
 シュルレアリスムの作家たちは、しばしば曖昧性を利用して鑑賞者に働きかける。マグリットの「秘密の分身」に描かれた人物は、男か女か判然としないが、見る者はそれによって作品世界に参加させられることになるのである。 高階秀爾(美術史家・美術評論家)

 ▽「シュルレアリスム展」は5月9日まで(5月3日を除く火隠休み)。パリのポンピドーセンターの所蔵品から、絵画、彫刻、写真などの約170点。
 

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