2010年6月19日土曜日

自分が変わる面白さ(617asahi)


  
鷲田清一さん(哲学者)
 読書会というのはその昔、『資本論』とか哲学の難しい本などを読むためによくやりました。一人ではくじけそうでも皆で読めば何とか続けられる。そこではみえも大切な原動力でした。けれどもそれは単なるお勉強会であって真の読書会ではなかった。
 そういうお勉強会と正反対のことをやろうと思って、10年ほど前から大阪で「哲学カフェ」というのを始めたんです。哲学を大学の研究室から解放し、さまざまな場所で、一般の方々に身近なテーマをめぐって日常の言葉で対話していただく試みです。始めるにあたって、まず三つの約束事を作った。一つはお互い名前しか明かさない。二つ日は他人の言葉の引用はしない。三つ目は他のメンバーの話は最後まで聞く。これだけで全然違うんです。演説をぶつ人もウンチクをたれる人もなく、純粋に論理にのっとった話し合いができる。
 読書会と哲学カフェは「語り合う」という点でかなり共通するところがあるように思います。どちらも、それまでどんなに雑談していても「ほな始めましょか」のひと言で一斉にチャンネルが切り替わる。そこからはこの本についてのみ話しましょう、というルールに従って、みんな一種の演技を始めるんです。そこが重要なポイントなんです。
 つまりそこでは「我」が抜け落ちて、他人の論理の筋道のなかに自分をすんなり溶け込ませることができる。哲学カフェでもわれわれが最もうまくいったと感じるのは、自分と他人の論理がグチャグチャになって「一体それ誰が言ったんやったっけ?」という瞬間なんです。そういう状態になると、自分が変わることが受け入れやすくなるんですね。
 大阪大でコミュニケーションデザインの授業を担当している劇作家で演出家の平田オリザさんが、いつだったかダイアローグ(対話)とディベート(論争)の違い
について見事な定義をしていました。ディベートというのは話し合いの前後で自分の考えが変わっていたら負け、しかしダイアローグでは逆に変わっていなければやる意味がないというんです。読書会も哲学カフェもともにダイアローグであるべきでディベートであってはならないんですね。
 だから結論が見つからなくて一向に構わない。むしろますますわからなくなったくらいの方がいいんです。元来コミュニケーションというのは話せば話すほどおのおのの適いがより細かく見えてくるところに意義があるんですね。だから読書会ではお互いの共通点ではなく、違いを見つけて下さい。そうすることで「オール・オア・ナッシング」の世界から抜けられる。人間、違いが見えると楽になるんです。 (写真・亭氷考宏)
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 わしだ・きよかず 1949年、京都府生まれ。京都大文学部卒。臨床哲学、倫理学専攻。桑原武夫学芸賞ぼか受賞多数。現在、大阪大総長。

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