2010年5月16日日曜日

描くことへの愛を貫く(426asahi引用)



イラストレーター安西水丸さん
 安西水丸さんは優しい笑顔で静かに話す。自分には苦悩がないと言う。創作に思い悩むあまり自らの耳を切り落としたゴッホのような人たちとは、まるで違うのだそうだ。
 「僕は絵描きではなくてイラストレーター。描くことが楽しくて仕方がないんです」
 依頼者の狙いを聞いて、どう表現しようかと考えると、いつも心がおどる。白い紙を前にすると気持ちがたかぶる。壁にぶつかったとか、描けなくなったという経験は一度もないという。「出来上がると、またこんないいの描いちゃってまいったな、なんて調子ですね」
 絵は子どものころから好きだった。明治生まれの厳格な母親には、「頼むから絵描きにだけはならないでおくれ」と言われた。それこそゴッホのような生き方を恐れたのかもしれない。失望させたくなくて勉強もしっかりやる」こっそり絵も描き続けた。母親の留守中に描く。布団の中で構想を練る。背徳の甘美なよろこび、燃え上がる禁断の恋。描くことへの愛はひそかに育まれ、その愛は貫かれた。
 「本当は絵が好きなのに、途中で捨てちゃう人がいるでしょ。やめて銀行に入ったとか。でも、やっぱり忘れられなくて勤めの帰りに絵の学校に通い始めたとかね、あとで苦しむ。愛に背いたからです」
 世界でいちばん描くことを好きなのは自分、と信じて続けてきた。うまいかどうかは別にして、その自信は揺るがなかった。描く人が絵を好きで、楽しまなければ、見る人も楽しくならないという。「あるんです、うまいんだけど何だか好きになれない絵って。描いた人に会ってみると、あ、やっばりなあということが」。表現者が苦悩することはやさしい。だが描くことを愛し、楽しみ続けるという境地には、誰もがたどりつけるものではない。
 安西さんは下書きも描き直すこともしない。もう一枚描いたら、もっと良くなるなどという考えは「さもしい」と嫌う。作品づくりは一発勝負。描き手のすべてが、白い紙の上に一気に露出される。
 「ばっと描いて、それでダメなら、自分がダメだということ。それだけなんですね」。優しい笑顔が、孤高の剣豪のようなニヒルな微笑に、一瞬変わった。 (小林伸行)

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